11/10の研究会(於・神戸女子大学三ノ宮キャンパス)では、辻原万規彦さんに、彼がこのところずっと取り組んでいる、日本統治下の台湾の製糖業の隆盛が、農地をどのように変化させていったのかという研究成果について話してもらいました。個人的には、台湾総督府が仕掛けた「原料採取区域」という制度がすごく興味深かったです。それは、サトウキビ生産農家は、地域ごと決められた製糖工場にしかサトウキビを持ち込むことができないという制度。この制度そのものについては、すでに私も知っていたのですが、辻原さんは、地名でしか示されていない公文書に書かれたその区域を、過去の地図の上に一つ一つ落とし込んで、その区域が変っていく過程を調べ上げました(図参照--辻原万規彦・今村仁美「日本統治時代台湾における米作優越地域での製糖業による地域の開発過程」日本建築学会計画系論文集、813号より)。そこからは、旧来からの土地所有者の支配から、国策としての総督府による製糖業の産業支配へと変化することが、その領域を大きく変えていったようすが浮かび上がってきます。なかなか興奮します。
都市史から領域史。近年は都市部だけではなく、その回りに広がる農地や山地なども含めて、歴史を広い「領域」から構造的に理解しなければならないという認識が強くなってきました。ただ、都市の周辺に広がる場所をどのように分析対象とするのか、その方法論が見つかりにくい。そんな中で、「原料採取区域」は、(強引にですが)領域の中に区域を区切っていって、その区切りが変っていくということで、広域な場所の意味や価値がどのように変容するかということを理解することができそう、という意味で可能性を感じます。もちろん、これは植民地支配における、製糖業というモノカルチャーの状況の中で使われた区域指定なので特異なものではあるのですが、いずれにしても、領域の場所が何らかの理由で区切られていくという現象は、領域史を解明する際の有力な見方を提示してくれるものなのだろうと思います。もちろんそれは、赤松さんらと私も議論を進めた「テロワール」の概念でも重要な視点となります。