六録楼での昨日の研究会では、齋藤駿介さんが、戦時期の仙塩(仙台・塩竃)地方の国土計画・地方計画について発表してくれて、それについて議論をしました。とにかく調査・分析が丁寧で奥行きの深いものになっていてよかったのですが、その上で、浮かび上がってきたのは、計画を立案した内務省の金森誠之という土木技師(なかなか魅力的な人物)の大胆かつ大がかりな計画図(下図)の謎です。多少はこの図が参照されていたと考えられるところもあるけれど、その後の実際の事業では、この図の内容はほとんど実現されていない。というよりも、この図が描かれた時点で、どこまでその内容にリアリティがあったのか、よくわからない。ほとんど絵空事のように見えてしまいます。
この研究会のメンバーでもある石田潤一郎さんは、かつて「京城」の工業都市化計画の分析で、その都市計画がどれだけ実現できるかどうかのリアリティは、最初から度外視されていたことを指摘しました(中川編『近代日本の空間編成史』2017)。齋藤さんも指摘してくれたけど、それと同じようなことが、この計画にも表われていたと捉えられます。結局のところ、戦前から戦中へと続く日本の都市計画は、しだいに規模を広げて、国土計画へと拡大されていくのだけれど、それを実現できるための道具立て(制度・技術)が新たに開発されたわけではなかった、ということなのですよね。
では、実現させる道具を持たずに計画図だけ書く。それはどのような行為だったのでしょう。この研究会の中心的メンバーにより編集された『空想から計画へー近代都市に埋もれた夢の発掘』(2021)で、私が出題したお題は、地域や都市の計画者が持ち得た「夢」はどこにあり、その多くがどうして実現されなかったのかを、さまざまな時代と地域で描く、ということだったのですが、実は、そもそもその「夢」は、絵空事として描かれることでしかなかったということなのですかね。でも、齋藤さんの発表にあった後日談も重要で、この絵空事の計画図は、その後、国民学校で未来の「大仙台」を語るための「原図」として使われているのです。
ここには、都市計画や国土計画が持ち得た、もう一つの役割が表われているのかもしれません。絵空事は確かに、役割を持っていたということなのではないか。