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構造とエリア

 たまたま、それぞれ別の用事(調査)で、山形と甲府に行きました。そうです、三島通庸(山形)と藤村紫朗(甲府)です。二人は、公共建築建設と都市設計に情熱をかたむけた(普請道楽とも言われた)県令、県知事として知られています。しかし、現在の街の姿は、まったく違ったものになっていておもしろかった。

 山形では、その都市設計の象徴とも言える旧県庁舎(文翔館)で、まさに三島通庸をフィーチャーした濃密で緻密な展示が仕掛けられていました。もちろん、1916年の見事な庁舎が残されていることもすばらしいのですが、この展示内容も一見の価値のあるものです。そして、つくづく思うのは、その展示の部屋からも外に垣間見れる、三島通庸が仕掛けた都市構造の、いわば頑丈さです。県庁をアイストップにしたメインストリートの象徴的な景観が今でもちゃんと維持されています。残念ながら、その通りに面してあった最後のデパートも閉店するなど、街のにぎわいはだいぶ落ち込んでいるように見えますが、それでもその整然とした街の構造には、都市の格調の高さが維持されているように感じられます。

 一方で、甲府にはそうした格式が感じられません。甲府の駅前には、藤村式擬洋風の睦沢学校が移築され藤村記念館として会館していますが、現在の街のありように、藤村紫朗の残したものは何も残されていない。彼は、多くの施設を街区の中に建設したのだけど、街全体に明確な構造を作ろうとしたわけではないのです。しかし一方で、そうして作られた一つのエリアとしての街が、いまではとても魅力的なものに感じられます。甲府は、甲府城(現・舞鶴公園)に隣接して、鉄道が敷設されました。こんなにも城の近くに鉄道が走り、駅(甲府駅)が設置されたのは、日本の中でもきわめて珍しいことです。その背景には、甲府が幕府の直轄地で、明治以降は甲府城の周囲の武家地がほとんど空地になっていたということもあるようです(なにせ、甲府はあくまで武田の館=武田神社(駅から北へ3㎞)こそがシンボルとして、今でも意識されているようですし)。城周辺の武家地の跡は、鉄道だけでなく、賑わいの商業地にもなっていきました。普通は武家地の外側の商人地が、そのまま商店街などになっていくのですが、そうはならなかったのです。図は、大正期の市街図ですが、すでに武家地が市街地化したようすがわかります。そうした結果、城と駅を中心としたエリアに県庁も市役所も裁判所も警察も図書館も、そして商店街もあらゆるものが集約されてしまうことになりました。こんなコンパクトに圧縮された街というのは珍しい。歩いてほとんどの用事が済んでしまいます。



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