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広場メディア

 6月17日(土)に京大人文研の高木博志さんの研究会に参加して、映画史の紙屋牧子の報告「明治大正期の日本映画と皇室のイメージ戦略」を聞いていろいろ議論をしてきました。とてもおもしろかった。報告の主題は、昭和天皇が皇太子の時の1921年に行った渡欧について、それを映画会社や新聞社が競ってフィルムに記録し、その上映会が日本中で開催されたのだけど、そのフィルムに映された皇太子の所作が、それまでの天皇イメージとは異なる、画期的なものだったというこということ。このことも、単なる映画史としてではなく、天皇制をどのようにイメージさせていくかという新しい歴史課題を導くものとしてものすごく刺激的なのですが、私には近代都市史の視点から見逃せない部分もありました。

 提示した写真は、紙屋さんの論文に掲載されたものです(「“皇太子渡欧映画”と尾上松之助」)。撮影されたフィルムは新聞社などが競って上映会を行ったのですが、その中で、「最速」に行われたと思われる東京日比谷公園の上映会のようすです。おびただしい数の人々が集っています。明治末ごろから、こうした広場に人々が押しかけるという情景は全国の大都市で見られたわけです。京都でも、例えば遼陽会戦などの戦勝記念や三大事業の竣工式などに、岡崎公園が人で埋めつくされました。とりわけ、この皇太子渡欧映画の上映は、それが動画であり動く皇太子が見られること、ヨーロッパの風景が見られること、そしてそれがつい先日というニュース性を持っていることなど、まだ誰も体験したことのないものを提供しているという点で、興行的な意味で圧倒的な魅力を持つものになったわけです。

 現在、メディアはそれぞれの個人に直接届くものになっていて、そのためにコンテンツの細分化や囲い込みなどの特徴が表われているわけだけど、個人に届くメディアが乏しい時期には、こうした広場という場を共有することで情報の伝達・共有が行われるというあり方がものすごい力をもっていたのだと思われますね。例えば対個人メディアの代表となるTVでも、戦後に放送が始まった時点では誰もその受像機を買えなかった。だから街頭テレビの前に人々が群がり、そこから力道山というヒーローが生まれたわけですね。そこまでは、メディアとは「広場」であったと言えるのだと思います。そうしたメディアとしての広場をきわめて象徴的に示す事例として、皇太子渡欧映画の記録とその上映はあったのだという見方もできるかもしれません。だから、皇室の記録であるにも関わらず、メディアの送り手が競ったし、皇室もそれを許容した、というよりも積極的に利用したというこなのではないか。

 ところで、この人文研の研究会も六録楼でできないかということを、高木博志さんと画策したのですが、現在の六録楼のキャパが13人。人文研の研究会は15,6人程度。ちょっと席が足りない。スペース的にはなんとかなると思うのですが。椅子が足りないのと、テーブルが小さすぎます。ちょっと思案中。



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