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宮川町の賑わい

更新日:2023年6月1日

 先日、六録楼に来られた大場修先生が、この建物の建設は大正期まで遡るだろうと見立ててくれました。おそらく京都の町家を一番見ていらっしゃる大場先生なので、なるほどと思いました。この建物は、戦前、宮川町の郭外に建設された座敷だと考えているのですが、確証はありません。ただ、花街としての宮川町は、戦前には京都で最も賑わった花街であったことは事実のようです。京都日出新聞(京都新聞の前身)には、定期的に花街の賑わいのランキングを報じています。昭和2年5月26日の記事には、「花の四月も今年は一般に不景気であつたが銀行取付け騒ぎのため花柳界は不景気であつたらうと思われていたところ意外にも前月よりもウント増し・・・今試みに四月中の京都八遊郭の涎高を見るに先づ消費金額の高い順から行くと依然宮川町が第一位で・・・」として、当時の8ヶ所の遊郭の詳細なデータを以下の表(文章で書かれていた数値を表にしました)のように報じています。当時、宮川町は、京都随一を誇る花街であったようです。ではなぜ、戦後は祇園甲部が京都のお茶屋街を代表する花街になっていったのか。この表からうかがわれることがありますよね。「京都八遊郭」とされる中で、いまはなくなってしまったものもあるわけですが、それらはみな「娼妓」の数が多い遊郭でした。したがって、戦後の売春防止法などにより、娼妓が排除され消えていったのですね。そして、もともと娼妓の数が少なかった祇園甲部、先斗町、上七軒などが芸妓の花街として生き残っていったのですね。なるほど。その中で、宮川町は芸妓も娼妓も抱える花街だったため生き残りはしたけど、隣の祇園甲部にはかなわない存在となったとというわけでしょうか。



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