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ポツンと残ったビルが語ること

 先日(5/23)の都市空間編成研究会ですが、荒木菜見子さんが住総研の研究助成を受けて進めている、年金福祉事業団が戦後行った事業協同組合の融資制度で建設された、共同住宅10例を歴史的な視点から調べるという研究の報告でした。このように書くと、なんとも地味で退屈な報告であったように思うかもしれませんが、実は、かなりおもしろかった。というのも、戦後の住宅供給政策は、住宅金融公庫、日本住宅公団、公営住宅などさまざまな支援制度が立ちあがり、それぞれの中央官庁が縄張り争いを繰り返し、なおかつ大蔵省が金を握って横やりを入れるという、きわめて混沌とした状況が生まれていたということがあったわけで、それを荒木さんが物語を語るように解説してくれたのでした。

 結局、年金福祉事業団の融資は、そうした支援制度の中でも、最もハードルが低いものとなり、有象無象と言っては語弊があるかもしれませんが、計画の妥当性ではかなり幅のある、さまざまな共同住宅計画に融資がなされたわけですね。その中では例外的に、その計画性において、最も緻密で規模の大きい事業としてあったのが、岡山鉄工センターの共同住宅計画への融資で、これについて中野茂夫さんが、その鉄工センターが持っていた岡山の都市構想の中での位置付けも含めて、発表してくれました。今でも稼働する、この中小企業団地が、いかに高い理念と計画を持って作られたものかはよくわかりました。

 しかし、その他の9箇所ほどの共同住宅建設事業は、かなり場当たり的と言ってよいもののようでした。写真は、その中の一つである浜松の浜優専門店会が融資を受け建設した共同住宅(浜優会館)の今の姿です。古くからの商店街が、それまで住み込みだった各店の従業員のために、商店街の近くにこうした共同住宅を建設するというのは、他の融資例でも見られました(新潟とか岐阜とか)。でも、そうした共同住宅のあり方は、すぐに行き詰まります。民間の賃貸住宅やマンションができてくるからなのでしょう。岡山の鉄工センターと同じように建設された北海道の木工センターは、その敷地の大半はイオンになっていました。

 結局のところ、中小企業団地というあり方も含めて、小さな事業者が集まり共同して何かを作ろうとするという、共同化の取り組みは、確かにこのころの大きな社会的なモチベーションとしてあったのでしょう。場当たり的と言ってしまったけど、年金福祉事業団の融資を受けた事業は、どれもその理念が支えたものであったことは確かです。でもそれは、比較的簡単に崩壊していきます。そのことこそが、戦後の住宅史を考える上で重要な論点になっていくのだろうと思いました。写真の浜優会館も、いまは雑居ビルと言ってよい状況です。



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